
「売れたのに、やめた。」
そんな経験があります。
私は長年、知的障害のある方々の就労支援を行うNPOに関わっています。
そのNPOには、お菓子をつくる工房があり、クッキーやパウンドケーキなどを製造しています。
もう15年ほど前のことです。
当時、私はもう一つの自分の会社で、OEMによるスイーツの商品開発を行っていました。
その経験を活かせるのではないかと思い、工房の皆さんと新しい商品づくりを始めました。
何度も工房に通い、当時の所長や職員の皆さん、そしてお菓子をつくる皆さんと、試行錯誤を重ねました。
専門のフードコーディネーターにも協力してもらい、材料やレシピを考えました。
自分で材料を買って持ち込んだこともありました。
そして、商品ができあがりました。
有名な施設のお土産売場、キャラクターショップ、都内の量販店など。
工房でつくったお菓子が、実際にお店に並んだのです。
商品は売れました。
みんな、本当にうれしそうでした。
お菓子をつくる皆さんも、作業を支えるNPOの職員も、笑顔になりました。
工房全体が明るくなったと言っても、過言ではありません。
親の会の皆さんも、会議の場で口々に喜びを語ってくれました。
障害のある人たちがつくったお菓子に対して、世の中には、今も心ない言葉があります。
そんな中、自分たちがつくった商品が、普通のお店に並び、多くの人の手に届く。
それは、単に商品が売れたということ以上の意味があったのだと思います。
私も、本当にうれしかった。
ところが、です。
売れれば売れるほど、現実的な問題が出てきました。
製造が追いつかなくなったのです。
普通の企業なら、人を増やしたり、設備を増強したり、生産体制を見直したりするのでしょう。
しかし、そこは障害者の就労支援を行う工房です。
時間も生産能力も制約があります。
一人ひとりに、それぞれの働き方やペースがあります。
売れたからといって、どんどん仕事を増やせるわけではありません。
私は考えました。
このまま続けたら、どうなるのだろう。
せっかく明るくなった工房が、忙しさに追われる場所になってしまうのではないか。
あんなに喜んでいたみんなの笑顔が、消えてしまうのではないか。
皆さんと相談し、悩んだ末に、当時進めていた商品展開をやめることにしました。
断腸の思いでした。
売れたから、やめた。
矛盾しているようですが、そういうことでした。
最近、経営学を学び直す中で、あの頃のことを思い出すようになりました。
今思えば、あのとき私は、ある危うさを感じていたのかもしれません。
経営学には、「ミッション・ドリフト(Mission Drift)」という言葉があります。
組織が売上や事業の拡大を追いかけるうちに、本来の使命や目的から離れてしまうことをいいます。
例えば、社会的な課題の解決を目的とする組織が、いつの間にか収益を増やすこと自体を優先するようになってしまう。
そんな問題です。
経営者は、目の前の数字を追ううちに、何のために事業を始めたのか、つい忘れてしまうことがあるのかもしれません。
これは本当に、答えがないような気がします。
もちろん、売上や利益は大切です。
NPOであっても、事業を続けていくにはお金が必要です。
でも、売上を増やすことは、本来の目的を実現するための手段でもあるはずです。
手段が、いつの間にか目的になってしまう。
これは、NPOに限った話ではありません。
私が経営する会社でも、同じことが起こり得ます。
売上を伸ばすことに夢中になって、お客様との信頼関係や、社員が安心して働ける環境を損なってしまったら、それは、本当に会社が成長したと言えるのでしょうか。
あの頃の私は、ミッション・ドリフトなどという言葉を知りませんでした。
ただ、目の前の現実を見て、悩み、決断しただけでした。
今になって経営学の言葉と出会い、あの経験を少し違った角度から振り返ることができるようになりました。
もっとも、あのときの判断が正しかったのかどうか、今でも分かりません。
別の方法があったのかもしれません。
生産体制を工夫すれば、続けられたのかもしれません。
当時の悩みや苦しさは、もう忘れました(笑)。
それでも、あの頃に生まれたパウンドケーキや焼き菓子のいくつかは、今も工房でつくられ、販売されています。
私も、今でも食べることがあります。
でも、ひと口食べるたびに、ちょっと涙の塩味がするのです(笑)。
経営者は、売上や利益を追いかけます。
もちろん、私もそうです。
でも、ときには立ち止まって考える必要があるのだと思います。
何のために、この事業をやっているのか。
売れたから、やめた。
あれから15年。
今も、あのときの判断が正しかったのかどうか、答えは出ていません。
ただ、工房のみんなの笑顔は、今でも覚えています。
あの笑顔を守るには、どうすればよかったのだろう。